十六羅漢

十六羅漢と宗龍寺

茶畑児童公園(通称ラカン公園)に巨大な石造五智如来と十六羅漢の尊像がある。
その昔、南部藩の四大飢饉といわれる元禄、宝暦、天明、天保の大凶作のときに多くの餓死者がでた。その供養のために、祇陀寺十四世住職天然和尚(のち宗龍寺三世)がこの石造の建設を発願した。
天然和尚は永年衣食を節約し、広く供養喜捨を集めるなどして資金を蓄えられたが、不幸にも志半ばで病に倒れられ、後のことを弟子にあたる仙北町長松寺十三世住職泰恩和尚(のち宗龍寺四世)に頼み、天保四年(一八三三)六月十二日、七十一歳で示寂された。
泰恩和尚は幾多の困難をのりこえて五万八千五十三人に及ぶ人々から喜捨を集め、天保八年(一八三七)十月に工事に着手し、その後、足かけ十三年もの長い年月を初心忘れることなく唯ひとすじに努力し、嘉永二年(一八四九)六月にようやく竣工を見るに至った。
当時飢饉にうちひしがれて意気消沈していた世の人々を奮い立たせないでおかない一大事業であった。
このラカン公園は祇陀寺の末寺宗龍寺のあったところで、宗龍寺は明治維新後祇陀寺に併合されて廃寺になった。また堂宇も明治十七年十一月の大火で灰燼に帰してしまった。その後跡地は石像を含めて昭和四十年一月、盛岡市に寄付され、茶畑児童公園(通称ラカン公園)として、尊像は市民の崇敬をあつめ、広場はいこいの場となって親しまれている。

杜の都社で発行している「街」で、盛岡の詩人が十六羅漢のことを書いているのを見つけた。

「心の温かさが運んだ十六羅漢」

羅漢さまには夕焼け。羅漢さまには雨上り。羅漢さまには子供たち。羅漢さまには静かな雪降り。夏の朝の木立ち。冬の青空。羅漢さま、あなたは、なんでもお似合いになる。私が初めて訪れた時、三メートルにも及ぶ花崗岩をお体にし、その丸い曲線に優しさやユーモアさえ湛えて、あなた方は静かに一人一人並んでおられましたね。
あなた方が、藩政時代、四大飢饉の大凶作による痛ましい餓死者の供養の為に建立されたということを想うと、その苦しそうなお顔、泣きそうなお顔、心配そうなお顔の理由もわかってきます。迷界に来て、衆生を救おうとされている五智如来像の五体を中央に、あなた方が並ぶ様は、私に人間の苦しみを分かち合っている心そのもののように感じられるのです。そして、あなた方を作ろうと思った人々の心を、これほどの大石を運んだ人々の力を、如来像と十六羅漢を丸彫した石工たちの祈りの手と歳月を。
年寄りが死んだろう。赤ン坊が死んだろう。若い女たちが、働き盛りの男たちが死んだのだろう。お腹が空いても食べるものがなく、日々、体は痩せ、草木を探しながら、皆、死んでいった餓死地獄。飢饉、大凶作 ― 現代の驕った飽食の中で、彼ら夥しい死者の声が聞えるか。口に入れる何ものもないまま死にたえた人々の声、泣く力さえない赤ン坊の幽かな声が ― 。それら民衆の痛ましい死を供養しないではいられなかったその時代の人々の心の温かさがこれほどの大石を運んだのだ。丸く彫られた石像は、十六羅漢建立に携わったすべての人々の温かさと祈りを脈々と胸に湛えて座っておられる。雨の中で。風の中で。
石がこんなにも優しい温もりと、表情に満ちていることに驚きながら、夕暮れのなか、遊びほうけた子供を探しに来た母親とその子に、羅漢さまが笑いかけているお顔をながめていると、なにものかにとらわれていた私の心も静かにほぐされ、和んでくるのです。あなたの徳がそうさせるのですね。羅漢さま。

東野久美子/詩人(盛岡)


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