祇陀寺について

曹洞宗 青龍山祇陀寺

曹洞宗は釈迦牟尼仏から歴代の祖師によって、師資相承正伝された仏法。
道元禅師は二十四歳のとき真の仏道を求めて中国へ渡り、天童山で如浄禅師と出会い、教えを受けた。日本に戻って曹洞宗を開き、永平寺の開祖となった。總持寺を開いた4代目の瑩山禅師が全国に広め、今日の曹洞宗の礎を築いた。
道元禅師の六代目の嫡孫となる大智禅師の意志を継いで弟子の光厳が南昌山の麓に青龍山港月庵を開き、その二百十年後久山俊昌和尚によって、天正八年(一五八〇)に復興され、青龍山祇陀寺と改号され現在に至る。

祇陀寺の由来

石川県の金沢市に祇陀寺という寺がある。この祇陀寺は、鎌倉末期から南北朝初期の間に、加賀の河内荘吉野郷(現在の吉野谷村)に開かれた曹洞宗の禅寺で、瑩山紹瑾の弟子で大乗寺三世明峰素哲の法を嗣いだ大智を開山とする。山号の獅子は百獣の王で、人中の王として一切おそれるもののない仏の比喩、寺号の祇陀は釈尊に祇園精舎を施入した祇陀太子に因む。吉野の地には戦国末期ころまで所在し、近世初期には前田利長関係者の庇護を得て、越中富山また守山を経て、その後金沢城下へ移った。現在は金沢市十一屋町にある。
大智は正応三年(一二九〇)肥後国宇土郡長崎村の農家に生まれ、七歳で大慈寺の寒巌義尹について出家、のち加賀大乗寺の瑩山紹瑾のもとで開悟した。ついで渡元し、十年余の間に古林清茂・雲外雲岫・中峰明本などに学ぶが、瑩山を真の師と悟り、苦難の末に高麗を経て正中元年(一三二四)加賀宮腰の湊に帰ってきた。直ちに能登永光寺の瑩山にまみえ、その法を得るが、瑩山の指示で明峰素哲の法を嗣ぎ、道元―懐弉―徹通―瑩山―明峰―大智と、道元から直系六代の法嗣となった。その後加賀の河内荘吉野郷に獅子山祇陀寺を開いたが、その開創年次については諸説あるものの明確ではない。
大智は祇陀寺に在住すること十年足らずで九州に帰り、肥後の菊池武重の帰依と支援を得た。菊池氏は広福寺・聖護寺を大智に寄進、これにより九州における大智門流の基盤が固まった。特に広福寺(熊本県玉名市石貫)はのちに大智門流の中心寺院となる。また延元三年(一三三六)に聖護寺敷地を寄進され、深山禅寂の仏道修行の場を得た大智は、以後ここに庵を結んで二十年山居することになる。正平十三年(一三五八)には肥前の有馬直澄に加津佐の水月庵を寄進され、大智は晩年をここで過ごし、正平二十一年(一三六六)十二月十日に七十八歳で示寂した。
大智は元において古林清茂の会下にあったこともあり、その偈頌(禅僧の詩)が多く残されており、曹洞宗門随一の詩人として知られ、五山文学の揺籃期を育んだ一人として評価されている。なお、大智は道号を持っておらず、「大智祖継」と呼ばれるのは誤りである。
以上が歴史家達の言う祇陀寺と大智の略歴、略伝である。

煙山付近の岩崎川沿いに見る南昌山。

さて当寺青龍山祇陀寺の由来は西暦一三二〇年にさかのぼる。当寺二世久山俊昌和尚の筆による祇陀寺の由来には以下のようなことが述べられている。
大智和尚は二十歳代に元に渡り、帰国後東奥行脚の折、陸奥を遊歴の頃、紫波郡郡山あたりで、はるかに聳える異峰の麓に至ると岩崎川があり、その源をたずねると二川に分かれ、左の川に沿って登れば青龍山、右に上れば数百歩にして数丈の滝があった。大智和尚がそこで休息していると忽然として老翁が現れ、和尚に言うに「ここは人の来る所ではない。神仙の窟宅となる所である」と。和尚が問うて「老翁はどのようなお方か」、「余はこの白滝の神なり、そなたが来たりし下流の淵に神があり、共にこの山の鎮護の龍神なり」と。(問答中略)
その山は金剛宝珠峰徳岩盛と言う。本山の乾の隅に青龍港ありと記され、滝の近くの岩窟に居住することを許されて、朝は村里に托鉢し、夜は坐禅にあけ暮れた。

大智禅師が居住していた洞窟はこの幣掛(ぬさがけ)の滝の近くあったと伝えられているが、近年の道路工事の際に崩されてしまったようである。

ある夜更け、坐禅をしていると青衣をつけ、髪を垂れた艶女が現れ、大智和尚に話しかけてきた。「私はこの金剛宝珠峰に億劫住んでいる者なり、永らくこの山に眠っていたが、和尚の光来を機に、仏道を説いて欲しい」と。そして和尚が説法し終わって、自分の血脈をこの神女に与えたところ、大変喜んで、「和尚のお導きのお陰で多劫の眠りからさめることができ、本来の神に帰ることができた。私は風雨を守護し、仏法皇法鎮護の神となる。私を補佐する両神あり、ひとつは大滝の龍神、もうひとつは庚申淵の龍神なり。和尚、このことを忘れないように」と言って去った。この時、元応二年(一三二〇)六月二十五日夜であった。

幣掛の滝を数百メートル登ったところにある南昌山神社。

翌日早朝から雷雨止まず。二十九日辰巳の頃になって雨が止み、陽がさしてきた。その雨で不来方の青龍港の水が溢れて大洪水となった。翌月五日の夜更けに大智和尚の坐禅中、青衣に髪を垂れた神女が現れ、和尚の説法、授戒を感謝し、徴物を呈上した。その徴物は、天竺雪山の頂、阿耗達池の水際より生ずる含珠石と、天龍の鱗三片、宝珠(玉)であった。 「これを秘蔵して山門開闢の折に、青龍鎮護の証となし、五穀豊地の内に一宇を開闢し給え」と言い、また「青龍権現、大滝の龍神、庚申淵の龍神の三神を以って鎮守とし給え」と言って去った。この三神が南昌山神社のはじまりである。
前述の含珠石(龍珠石とも言う)、天龍の鱗三片、宝珠は祇陀寺開闢の基礎であり、現在当山の寺宝となっている。
大智和尚(今日では大智禅師と呼ばれている)の歿後、弟子の光厳長老が、大智禅師の遺志で正平二十三年(一三六八)、南昌山に港月庵を興し、青龍山と号した。その後、久山春昌和尚が河村一夕斎の帰依を得て同道し、港月庵をたずね、当所の諸人の協力で一院を復興し、青龍山祇陀寺と改号した。この時天正八年(一五八〇)、久山俊昌和尚志願成就すと記される。そして現在に至る。

港月庵は光厳長老以後二百十余年の住職不明の時期があり、祇陀寺を復興した久山俊昌和尚を中興第一祖とするとある。久山俊昌和尚は元和四年(一六一八)に示寂している。
慶長年間不来方城築城後、三戸から報恩寺が南部の総領として来たため当時の住職が報恩寺から勧請開山として、鳳庵存龍和尚を迎えたものと思われる。
当寺の本尊は釈迦牟尼仏、開基は河村一夕斎といい、三戸南部利直公に仕官し、後に、女鹿村・金田一村を賜り、女鹿丹後守信宗と称した。戒名を青龍院祇陀兵憲居士という。


寺だより

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(2011年3月14日)


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