十六羅漢

五智如来と十六羅漢の建立

天保四年の六月十日頃、名僧と称えられた祇陀寺十四世住職廓巌天然和尚はあすにも知れない病体を横たえた枕もとに弟子であった仙北町長松寺十三世徳廓泰恩和尚をよんで、長年自分の衣食を節約して貯蓄した五百貫文の金を差出し、「河北報恩寺に仏蹟五百羅漢がある……。自分は河南に五智如来と十六羅漢を建てて報恩せんとその資を蓄財してきたが因縁至らず死期が迫った。」と素志の達成を頼んで入寂した。

師の臨終の遺言を深く心に銘じた泰恩和尚は先師の計画が丈余の石仏二十一基という非常に大きな念願であったことにおどろいたが「志して成せぬはなし」と決然長松寺住職を辞めて建立資金募集の「托鉢の旅」に立った。
行脚足かけ五年「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれた山また山の藩内を托鉢して回り、五万八千五十三人の大勢から喜捨を集め、天保八年十月、中村武七ら九名の石工を雇い大石像建造に着手した。
精神一到何事か成らざらん。当時数年ごとに大凶作が襲来し、世間は不景気の絶頂に達していたが、泰恩和尚の仏恩、師恩、奉謝の姿に世は動かされて、盛岡藩内の当時の人口三十五万人の七分の一以上の人々が応分の喜捨をした。
こうして起工したものの、一年二年で終わる事業ではないので、これまで集まった金だけではとても支えきれず、泰恩和尚は再び托鉢に身を労せざるを得なかった。
そして風雨を突いて石工たちの作業を督励する泰恩和尚の苦心は托鉢の時にも勝ったといわれ、着工から足かけ十三年の歳月を費やして嘉永二年六月遂に完成、大願を成就した。そして泰恩和尚は翌三年七月二十六日世を去った。

写真左:飯岡山の飯岡千手観音堂。この裏手をしばらく行ったところから石を切り出してきたようだ。
写真右:飯岡山を少し登っていくと、石を切り出した跡が見られる。

この五智如来と十六羅漢の下絵は盛岡藩の御絵師狩野林泉の手になった。起工の始めは仙北町長松寺前の長屋を借りて、石工たちは起居し、別に近くの荒蕪地に小屋掛けをし仕事場とした。この時、長松寺の大檀那佐藤清右エ門氏は深くこの仕事の前途を気遣い、泰恩和尚とはかって、飯岡山から石材を切り出し粗ぎとりをなす間々に、釈迦如来の像一体を試作させてみたが、大変出来栄えがよかった。これにより、関係者一同安心し、また石工も愈々自信が強まり、着々と仕事が進んだ。こうして三年間かかって二十一体の台石と共に粗ぎとりは出来上がった。そしてこの試作の釈迦如来像一体の工費は全部佐藤清右エ門氏が喜捨してこれを長松寺に寄進した。今なお現存し長松寺の墓地に鎮座している。

長松寺の墓地に鎮座している釈迦如来像。そのお顔は茶畑らかん公園の方を向いているようにも思える。

大体粗ぎとりが出来上がったので、宗龍寺境内に長屋をつくり、小屋掛けをし、そこで仕事をなすことになった。石材の運搬は仙北町と青物町の青年約三百人が総出でこれに当たった。皆随喜から湧き出た労力の供養であった。
その運搬の道筋は、先ず北上川岸に運び、それから船で向う岸に上げ、(別の説ではソリで川底を曳いたとある)川原町、鉈屋町、十文字、永泉寺前を経て宗龍寺に送り入れた。これだけの仕事に数ヶ月かかったという大仕事であった。こうして宗龍寺で嘉永二年六月にとうとう完成したのである。
当時飢饉で打ちひしがれていた人々を奮い立たせないではおかない一大事業だった。


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